-鍵掛峠に見た夢-
落合・道後山~生山間鉄道構想を追う
備後落合駅といえば、
皆さんご存じの通り3方向への分岐駅です。
しかし、
もしかしたらさらに増えて
4方向に別れるかもしれなかった
とか、
隣の道後山駅も分岐駅に
なるかもしれなかった
とか、
そんなIFを聞いたらどう思うでしょうか。
ここでは、戦争の時代に提議され、
ついに叶うことのなかった
落合・道後山~生山間鉄道構想を
追いかけていきたいと思います。
1.鉄道敷設運動の歴史
八鉾と生山を結ぶ鉄道を作ろうという声は、八鉾側の三神線が開業した頃には
すでに上がっていたようです。
特にその声が大きかったのは鳥取県側で、
日野郡日野上村・多里村(どちらも現日南町)の有志らが中心を成してました。
確かに地図を見てみると、この両地域は
それほど離れておらず、道後山駅~生山駅は直線距離にして約22km、備後落合駅からでも25kmほどです。
この短い区間を結ぶ鉄道が開通すれば、
今日まで作られることのなかった広島~鳥取の直通鉄道ができることになり、利便性が増すことは間違いないでしょう。
しかし短絡以上に重要な目的が
この鉄道にはありました。
多里村にある鉱山からの貨物輸送です。
日本海新聞1940年12月30日付より
地図で見る八鉾~生山周辺
両地域は直線距離にして30㎞も離れていない
(国土地理院地図より加工)
日本一のクロム鉱山と云われた若松鉱山跡(Wikipediaより)
当時多里村の南には、若松鉱山・広瀬鉱山といったクロム鉄鉱の鉱山がありました。
明治中期から採掘が始まった両鉱山の産出量は年々増えていき、昭和戦前期には国内シェアの半分近くを担う
「日本一のクロム鉱山」となっていました。
ふもとの多里村も鉱石輸送や鉱山従業員が集まって活況を呈し、同村は現在の日南町域の中でも「金持ち村」として知られるほどの活況を呈していたそうです。
しかし、採掘が増えるということは、運ぶ量も増えるということ。
たしかに道路は改良され、運ぶ手段も人から馬、そしてトラックと次第に便利になってはいましたが、それでも輸送が追いつかなくなっていました。
そこでより大量輸送が可能となる鉄道の敷設が提言されたのです。
生山~八鉾を結ぶ鉄道ができれば、生山までの輸送が改善されるだけでなく、広島方面への輸送もダイレクトに行うことができます。
折しも日中戦争が長期化、他国との戦争も危ぶまれていた時期、広島や呉といった軍事都市への物資輸送の向上は重要課題でした。
―この鉄道が開通することは、国益にも適っている。
この勝算をもって八鉾~生山間鉄道の敷設運動は次第に活発になっていきました。
まず1940年12月から各所への陳情回りが始まります。
はじめに当鉄道の"沿線"となる日野上・多里・八鉾の村長が岡山の工事事務所や米子の運輸事務所に陳情。
さらに翌年2月には、山上・阿毘縁・大宮・石見・福栄(いずれも現日南町)の村長や同地の農会長・運輸関係者・そして鉱山関係者も加わり、国会や鉄道省への陳情を行いました。
3月に入ると、運動をより強固なものにしようと、鉄道新設期成会が発足します。
このときは「生山~多里間鉄道期成会」と、鳥取県内のみでしたが、いずれ県境を越えて八鉾まで建設するつもりだったのは変わりありません。
そしてこの頃にはついに独自に測量を始めるなど、実現に向けて大きく動き出したのです。
・・・しかし、イケイケムードだったのはここまで。
実際に測量をしてみると、峠越えの区間はおろか、生山~多里の区間も日野川の渓谷に沿った厳しい地形でした。
そこに鉄道を敷くとなれば、建設費も莫大なものとなり、金持ち村とはいえ大きな負担となっていたことでしょう。
国に頼ろうにも、国鉄路線の建設方針を定めた「改正鉄道敷設法」にも載ってない路線ゆえに優先順位は低め。
ましてや戦局の悪化により、新しい路線の建設が滞る時勢。僻地の鉄道構想の具現化など俎上に載ることもありませんでした。
こうして八鉾~多里~生山の鉄道構想は潰えることとなってしまったのです。
とはいえ、鉱石輸送の改善だけでもせめてやっておきたいところ。
そこで折衷案として、生山~多里間で国鉄によるトラック輸送の陳情が1941年9月にされました。
これについては国鉄も肯定的だったようで、翌年9月鉄道期成会は
鉄道省運輸期成会に改称(鉄道以外の輸送手段も考えたもの)
そして1943年5月、いよいよ生山~多里~伯耆新屋間に
国鉄自動車多里線が開業しました。
国鉄自動車といっても、走らせるのは貨物輸送のトラックだけ。
あくまでこの路線はクロム鉱石の輸送のためだけに開設されたのです。
また、当路線は生山~新屋間のいわば"盲腸線"で、
広島県に乗り入れることはありませんでした。
(もっとも戦時中の木炭トラックでの峠越えは至難の業だろうけど…)
これでは当初の構想の半分も実現できてません。戦争が終わると、多里線のさらなる拡充が望まれました。
1948年9月には多里線での旅客輸送開始、同時に生山から備後落合・出雲横田・その他周辺の村々へ国鉄バス路線を開設するよう陳情が行われました。
しかしこの声が届くことはなく、翌1949年についに運輸期成会は解散。
結局多里線は県境を越えることも、旅客輸送を行うこともなく
1965年に路線廃止となりました。
広島鉄道局統計年報の管内略図に描かれた多里自動車線
国鉄自動車多里線データ(1950年)
駅
小口扱収入
車扱収入
雑収含む合計
生山営業所・霞・矢戸・伯耆宮内・伯耆河上・多里・伯耆新屋
95,860円
3308万4610円
3532万2510円
2.実現の可能性は?実現していたら?
まず先に言っておくと、この鉄道の実現の可能性は限りなく低かったと思われます。
いくら鉱山があるとはいえ、生山~多里の盲腸線では採算はとれそうにありません。
仮に多里まで鉄道ができたとしても、同線の収入の柱となる若松鉱山は1996年に閉山しているので、
遅くともそれまでには廃止されるものと考えます。
じゃあ、鍵掛峠越えて道後山や備後落合まで開通してたらイケるんじゃないの?
・・・いやいや、その峠越えや広島県側の路線の建設がさぞ難工事になったことでしょう。
だって、今現在の道路見ても、
小鳥原~三坂の急カーブ&急坂
←こんなだよ?
こんなん立ってるよ?→
多里~県境の上り坂入口
とんでもない急坂とカーブの連続なのです。
ましてや鉄道ともなれば、急坂を避けるためにとんでもない大迂回やスイッチバックを作ることを
余儀なくされたことでしょう。
ではもし、万に一つ、この鉄道が開通していたら?
鳥取側から南に辿ると、生山~多里~新屋~鍵掛峠県境~三坂というルートになるのはほぼ確定です。
一方広島県側は備後落合・道後山どちらが起点になるかは不明ですが、道後山駅の方が標高が高く勾配も緩和できるので、おそらく道後山から分岐していたと思われます。
その場合国道183号~広島県道446号に沿ったルートになります。
ちなみに"勾配が緩和できる"といっても、あくまで備後落合起点と比べた場合の話。
道後山駅が標高611m、三坂集落が標高700m、直線距離が3㎞なので、単純計算しても勾配は27パーミル!
(ちなみに日本の鉄道の勾配は原則25パーミルが上限)
おそらくカーブを増やして勾配を緩和するでしょうが、
それでも20パーミルの上り坂が続く難所となっていたでしょう。
では備後落合起点にするとどうなるか?
まず備後落合から直接分岐ということはまずありえません。芸備線が小鳥原集落まで北に進んでいるからです。
なので備後落合~小鳥原は芸備線との重複区間、小鳥原(おそらく第1小鳥原鉄橋の東)から分岐し、そこからどうにかして山を登って三坂に至るルートになっていたでしょう。
もしかしたらその分岐点に小鳥原駅、ないし信号場が置かれてたかもしれません。
ちなみに小鳥原~三坂間は直線距離2.5km、標高差約170mなので、計算すると勾配は68パーミル!(碓氷峠越え!)
当然こんな急勾配で作ることはできないので、これまたかなりの迂回を強いられることになったでしょう。
八鉾~生山間鉄道想像図
黄緑は備後落合ルート、黄色は鉱山支線
(国土地理院地図より加工)
次に、輸送体系はどうなるでしょうか。
まず線内の駅は南から順に(小鳥原分岐)・三坂・(鍵掛峠県境)・新屋・多里・河上・宮内・霞に駅が置かれていたと考えます。
新屋か多里からはクロム鉱山への貨物線が伸び、おそらくこの線内の拠点駅になったのではないでしょうか。
また道後山駅よりも三坂のほうがより道後山に近い駅となるので、道後山駅は改称されてたかもしれません。
(「備後高尾」か「備後植木」あたり?)
ただ備後落合起点の場合、地形の都合から三坂集落近くに駅を置くのは難しかったと思われます。
(おそらく現在のクロカンパーク西端辺りに設置?)
広域輸送ではまず間違いなく、広島~米子の急行列車が走っていたでしょう。
史実の急行ちどりの経路では、備後落合+出雲坂根で計3回スイッチバックを行っていたのに対し、
当路線経由だと0~1回で済むので、けっこうな時間短縮になるはずです。
もっとも、上述の通り当線はかなり勾配緩和に苦しみそうな路線。
もしかしたらこの路線も山越えの途中にスイッチバックを設けるかもしれないし、その場合、大いに時間のロスが予想されます。
また、春夏秋冬1年中楽しめる行楽地道後山へのアクセスとして、三坂まで臨時列車が走っていたことも想像できます。
地域輸送は鳥取県内(日南町内)や広島県内(西城町内)はともかく、県境跨ぎの需要は極めて少ないと思われます。
実際この区間に備北交通がバスを走らせていましたが、県境越えのバスは夏休み期間に1往復のみという少なさでした(1969年時点)。
さらにこのバスも1974年には廃止されているので、かなり寂しい輸送実態だったことが推測されます。
広島県側の地域輸送は、三坂と小鳥原(駅が置かれた場合)の2集落からの通学輸送が主になると思われます。
並走する国道が改良される1980年代までは、それなりに需要はあったのではないでしょうか。
また、道後山駅起点の場合、小奴可・東城方面への直通列車が設定され、その方面への通勤・通学需要が増えてたかもしれません。