保線区とは?
仕事の性質が余り地方に交渉がないのと旅客を取扱う駅の様に民衆に接触する機会が尠いので自然保線区は同じ東城にあり乍ら、内容等余りよく知られていないが現区長盛川剛介氏着任以来交通・運輸・文化の魁かけ、国鉄の名にかけて重大なその使命の達成に異数の熱と力を示して而も明朗、一躍日本再建斯界の寵児たらんとする同氏に就て朗らかに新年の話を聴いて見る。東城保線区は塩町から岡山県神代迄蜒94キロ近く線路の保守に300名近く、本区のみで約80名の人員が分区6(東城・小奴可・落合・西城・庄原・油木)線路班14(坂根・矢神・東城・八幡・小奴可・道後・落合・熊野・西城・高・庄原・山ノ内・油木・三井野)と更に此の現場を推進する為めに本区は庶務・厚生・会計・資材・軌道・保安・土木工事・建築機材の各係に分る
新声新聞1948年(昭和23年)1月1日付
保線区とは?(2)
外に工場と研究係を有ち之等の係が打って一団となって昼夜を分たず線路に対し警戒の眼を光らし旅客・貨物の安全な輸送に努力している訳です。夜間は寧ろ昼間よりも大切で区長・分区長・工手長と蜘蛛手の電話線はスワと云えば連絡出来る様待機しています。更に庄原に保修班と称する新規採用工手の教養学校を設けていますが之れは非常時増員にもあてらるる訳です。豪雨到れば直ちに警戒するし土砂崩壊・河川氾濫・多量の降雪(目下木次線の如き殆ど常時ラッセルの出動を見、除雪に区員敢闘しています)等皆保線区の本領を発揮する真舞台で、盆も正月もなく深更も厳寒もない、新年宴会の席から直ちに深夜モーターカーを飛ばして出動したこともあります。その対策には管内毎日の気象状態・温度・気圧・降雪・降雨量を漏れなく記録し、橋梁・隧道の変状記録を取って用意怠りなく万全を期しています。然も現下山陽線強化に重点がおかれているため工手の2~30%は殆ど当時助勤に山陽線に応援に出ているという状態です。平素春日遅々たる時、秋空一碧の下線路のタンピングをやっている工手達を呑気相だと眺めていた人達は此所に暴風雨の深夜活躍する保線区員の真骨頂を想起されて認識を新たにされると共に列車の安全なる運転に烈々たる闘魂を沸らせ、然も黙々まで縁下の力持に甘んじている愛すべき純心な同胞に親しみを持たれて今後相共に相携えて新日本建設に邁進したいと念願するものであります。
新声新聞1948年(昭和23年)1月17日付