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執筆者の写真小鳥 原

20世紀スポット<5> スキー場の草分け道後山 滑る楽しさ教え70年

県内スキー場の草分け的存在と言えるのが比婆郡西城町の道後山(1,269メートル)だ。シーズン中約3万人が訪れたバブル時代に比べると、少なくなったが、多くのスキーヤーを育てたその地位は揺るぎない。

日本でゲレンデスキーを始めたのは大正末期から、と言われる。その早い段階で県内にも技術が入っていた。後の比婆美人酒造社長小田研一さん(故人)は昭和初期に吾妻山にヒュッテをつくり、滑っていた。

その後、道後山にもスキーを目当てに訪れる人が出始めた。炭焼き小屋が拠点だった。1930(昭和5)年、地元住民によってヒュッテが建てられる。西城町元教育長の中川茂さん(92)は小学校教師時代の当時、県の講習会でスキーを習い、とりこになった。

「車もない時代、スキー板を担いで歩いて道後山まで登ってスキーをした。片道3時間がかり。それほどまでしてやるだけの楽しみがあった」。77歳まで現役で滑っていた中川さん。講習会の講師なども務め、その楽しさを教わった人も多い。

36年に国鉄芸備線が延び、道後山駅が開業。2年後には当時としてはしゃれた造りの本格的宿泊施設、国鉄山の家がオープンした。道後山のもう一つの売り物は豊かな自然。ヤマツツジをはじめ、高山植物の宝庫だった。駅の開業でシーズンを問わず、訪れる人は急増した。

山の家開設当時から食堂を長く続けていた木村春枝さん(故人)は、山のおばさんと親しまれた。霧が深い日は太鼓をたたいて、場所を知らせていた、との逸話が残る。現在の管理人柳生一美さん(66)は「今でも年配の方が来られると、『若いころお世話になった』と懐かしそうに話される」と言う。道後山の人気を支えた一人だった。

戦後の46年に進駐軍が山の家を接収、47年には国体スキー予選が開かれた。66年にはリフト2基とゲレンデが完成、一般の客も楽しめるようになり、スキーブームともあいまって、にぎわいは増した。

町出身で新聞記者時代を通し、道後山を見続けてきた米花斌さん(79)は「長い歴史の中、後から考えると先駆者的な人がいた。偶然ではあるが、そういう人たちの影響が大きかった」と話す。自然の素材を生かし、さまざまな人がかかわってきたスキー場。70年以上にわたって、人々に楽しみを提供し続けている。

中国新聞2000年(平成12年)4月19日付

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