製鉄の工程で生まれる不純物の混ざった残りカス「かなくそ」
他の石より鈍い黒色でずっしり重い
かつて中国山地では砂鉄と木炭を原料とした
「たたら製鉄法」による鉄の生産が盛んでした。
三神線沿線の八幡・小奴可・八鉾の各村は、これらの原料が豊富に取れること、標高が高い寒村で冬の麦作が難しいという事情もあり、多数の製鉄場が置かれ、農閑期はもとより年間を通して村の人々の重要な収入源として操業していました。
また、そこで作られた鉄の集積地となった
東城や西城の町は「くろがねどころ」と呼ばれ活況を呈しました。
明治半ばには沿線に200か所はあったと云われる
たたら製鉄場は、洋式製鉄の普及や輸入鋼材の増加などが重なり数を減らしていき、1921年に
八鉾村小鳥原の大谷山、小奴可村内堀の見取原の両製鉄場が廃業し、広島県内でのたたら製鉄の
歴史は幕を下ろしました。
「東城西城くろがねどころ、安芸の吉田は女どころ」
「三坂猫山で食えぬ者は、どこへ行ってもやってけぬ」
高尾の大金屋子
製鉄においては金屋子が神として祀られ、
社や石仏が建てられてきた。
この金屋子様は、かつて細川たたらが置かれていたと
推定される場所に鎮座している。
小奴可地形
小奴可村は比婆郡内でも特に製鉄が盛んな地域で、
明治初期には120以上の鉄穴があった。
たたら製鉄で使われる砂鉄は、山の土砂の中から採取
するため、必然的に多くの山が崩されることになる。
たまに大岩などが掘り残されて、それらは時間の経過とともに風化し、小山が形成されていく。
こうして盆地の中に小さな山が点在する、
独特の地形が生まれていく。
この形成プロセスを知らなかった地質学者が、
三神線列車の車窓からこの地形を見て、
「このような地形が自然に生まれるのは珍しい」と
勘違いし、「小奴可地形」と命名したと言われている。
要害桜からさらに登った亀山城二の丸跡から
眺めることができる
鉄道や自動車が普及するまで、荷物の運搬の主役は牛や馬でした。
とくに三神線沿線はたたら製鉄が盛んなこともあり、重い木材や鉄を運ぶのに牛は欠かせない存在でした。地域一帯が、牛馬を大切に思う大山信仰の影響を大きく受けていたこともあり、数多の供養碑や石像が建てられ、
丁重に供養されてきました。
他方明治に入り牛肉食が日本で普及すると、
衰退しつつあった製鉄の代替産業として、
牧畜が盛んに行われるようになり、現在の
広島牛ブランドの一員である「比婆牛」の
ルーツとなっています。
備後八幡駅の南にある肉牛の牧場
森湯谷の大山遙拝所
牛馬への加護を願う大山信仰は、現在の八幡地域に
あたる村々にも広まった。森村では、西にそびえる飯山から白滝山にかけての稜線から伯耆大山が遠望できる位置に、大山社を設けた。
しかし山を登って参拝するのは大変である。
そこでふもとに遙拝所が作られ、手厚く祀られた。
(東城駅より所要計50分ほど)
森湯谷のエドヒガンから徒歩5分
江戸時代初期に、五品嶽城の下に町が作られたのが、現在の東城町の始まりです。
以来400年、備北国境に近く4方向に街道が通るこの地は、政治的にも重要視され、広島藩浅野家の家老が治める「城下町」として栄えました。また、鉄や木材などの資源に恵まれ、成羽川の水運も利用できたことから、寒村並ぶ中国山地の中でも一大商業地帯として大いに賑わいました。
三神線開業以降は、川を越えて北に新市街地が形成され、旧市街地は往時の面影を思わせる町並みが残されています。
東城市街地の観光については
「まちなか交流施設えびす」へ
お訪ねください。
観光案内のほか、
土産販売やパンフレット配布、
町民ギャラリーなど用意して
お待ちしております。
営業時間:朝9時~夕方18時
定休日:毎週木曜
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東城駅から徒歩6分
東城小学校バス停から徒歩10分
まちなか駐車場から徒歩4分
東城お通り
400年以上続く東城の伝統行事。
花を植え付けた煌びやかな母衣(ほろ)を背負った
母衣行列をはじめ、大名や武者の仮装行列と演武が
東城の市街地を練り歩く。
毎年11月上旬に開催。
行事の詳細は以下リンク参照
受原の岩倉大権現
三神線の線路沿いに構える、
あまりにも背が低すぎる鳥居が立つ祠。
背後には数多の巨石が立ち並んでおり、それらのうちのどれかを砕いてできた粉をイボに塗ると、たちまち治るという言い伝えが残されている。
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備後八幡駅から旧国道を南に徒歩1時間
下受原バイパスバス停から国道を北に、途中右から分かれている小橋を渡り徒歩10分