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北備の春を訪ねて
―小奴可庄原ペン行脚―(記事抜粋)
午前7時芸備線備後小奴可駅に辿りついた筆者は、〇〇に施行中の駅員、運送店従業員の朝の点呼に参加し、ともに伊勢大廟・皇居を遥拝、併せて皇軍将兵の武運長久国威宣揚の祈願をなし、謹んで感謝の微衷を表した。さらに駅員は野坂駅長の司会で、今日一日の絶対無事故を宣誓し「生の歓喜」を明読後敬虔な態度、確固たる信念でそれぞれの部署についたが、開通以来無事故を誇る小奴可駅にしてはじめて存続し得る行事であると、神聖なる同駅朝の点呼には思わず感激した。"運輸報国"のスローガンに生きる小奴可駅の戦時下における躍進を祈った。
午前8時58分小奴可駅発下り列車で備後庄原町方面に向う。白厳々たる広野を縫うて、一路雄大な猫山・道後山山麓を西下する。ここは戦時下に復活した砂鉄採取と白煉瓦製造の貴重材料となるクローム鉱石の特産地たる比婆郡小奴可-八鉾の村境である。小奴可川は砂鉄洗いの濁流で氾濫し、クローム鉱石発掘の鑿の音は平和な山村の冬空に木霊している。
9時11分県北にその名ありと知られた観光駅”道後山駅”についた。 県下に冠たるウインタースポーツ場として道後山スキー場の存在はあまりにも有名でありアマチュアスキーヤーたちの憧れの的だ。銀飾を凝らした雄大な道後山の大斜面は、スキーヤー来れと胸襟(きょうきん)を開いて待機している。収容人員6000余名といわれる広鉄自慢の一つ”道後山山の家”は工費並びに設備費総額5万円で食堂兼談話室・売店・スキー置場・同乾燥室・浴場・客室・ベランダ・電話・水道・新聞雑誌・ラジオ・蓄音機・ピンポンなどあらゆる近代的文化施設を配備し、同館を開放。アルピニストやスキーヤーのオアシスとして歓迎されている。なお7日からは1・2月中毎週日曜日にスキー日曜学校開設の予定で、広鉄では万全を期しこれが準備に忙殺されているが、当日は広島-道後山駅間臨時スキー列車”白雪号”を運転して”体位向上銃後のつとめ””滑れ銀嶺歓喜を乗せて!”と銃後の男女青年たちに呼びかけサービス満点。おかげで道後山ゲレンデは押しかけた遠近スキーヤー達で人々々の氾濫である。
中国新聞夕刊1939年(昭和14年)1月8日付

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